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創作文芸ブログ
テリング 
2016/03/30 Wed. 21:32 [edit]
ゼミの課題で出したやつ。論文なのにしゃべってるのが面白くて掲載。
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「卒塔婆小町」におけるテリングの魔法―「新釈 遠野物語」と比較して―
1、<異界>と語り
「桃太郎も、「浦島太郎」も、読者が異界に誘われる時、その物語は三人称の目線で描かれている。それが、最も効果的に読者を異界の物語へ誘導出来るからであろう。語り調は物語の基本形とされ、昔話に多く利用されてきた。しかし、「新釈 遠野物語」や「近代能楽集」に見る語りは一人称の目線で語られている。更に、一人称の目線で語る内容は、語っている本人の体験である。いわゆる回想であるが、それらは一種の<異界>と言うべき内容や、語り方をされ、最終的にはこの世のものでない雰囲気を保ち続け、読者にその印象を強く残す。
では、この二つのテリング―語り方―を比べてみると何かがみつかるのではないだろうか。少し考えてみることにする。
2、一人称と三人称
「新釈 遠野物語」は「ぼく」が「犬伏老人」の語りによる、主に老人の体験談を書き連ねたものである。「卒塔婆小町」も同様に、「老婆」が「詩人」に自身の体験について語るものである。どちらも一人称による回想の物語であり、「狐穴」「卒塔婆小町」共に、ある瞬間から<異界>が発生する。「桃太郎」「浦島太郎」と同じように<異界>に入っては出てくる、一種の異界訪問譚である。「狐穴」と「卒塔婆小町」における違いは、小説形式か戯曲形式かである。戯曲として描かれた「卒塔婆小町」は「老婆」の心情は描かれず、ト書きによる説明と「老婆」の語りによって、ちょっとした<異界>が発生する。一方、「狐穴」は小説の形式で、「犬伏老人」の語り(時には会話も表現する)によって<異界>が存在していたことが後々わかる。
何故、一般的に読者を導入し易い三人称の目線ではなく、あえて一人称の語りによって一種の<異界>を発生させる方法を選んだのか。読者が体験する<異界>が三人称の目線だとするならば、一人称の目線によって発生する<異界>は読者が想像する<異界>なのかもしれない。そうなると、読者の目線(感情の移動)はどこに置かれるのか。三人称であると主に主人公に置かれ、一人称であると語っている本人以外の人物に置かれる。これは、物語上で<異界>を体験するのが主人公である三人称の語りと、語られる話を想像していく準主人公の立場とまるで同じである。見せたい<異界(物語)>の角度によって語りが巧妙に変えられているのである。
<異界>の中身を知る語り手と、それを聞いて想像する聞き手と読者。その関係を上手く使うことにより、物語をより一層面白いものに変える力が、語りにはあることがわかった。
3、語り手と聞き手
「狐穴」「卒塔婆小町」共に一人称の回想形式で語られ、語り手と聞き手の存在にて物語が展開していく。先程から述べている両作品内に見られる<異界>であるが、回想部分に当たるものを指している。「狐穴」では話している「犬伏老人」が体験したものを語る回想であり、聞いている「ぼく」はその物語に入ることはない。しかし、「卒塔婆小町」では、「老婆」が体験した出来事の中に聞き手である「詩人」が入り込んでいる。読者をそれぞれ聞き手に置き換えて考えると、<異界>に入る「犬伏老人」の体験談を聞き、その情景を想像する読者が「狐穴」であり、「老婆」の巧みな話術によって<異界>に誘われる読者が「卒塔婆小町」であると言えるだろう。
「老婆 わすれちゃいけない。あんたは深草少将だよ。」(P105L5)という一言により、「詩人」は「深草少将」になり、「老婆」の過去を見る。「卒塔婆小町」は戯曲なので語り手は「老婆」だが、再現する人がそこには存在する。回想を<異界>と定義し、それを見ることになった「詩人」は「老婆」の一言により、<異界>に呑みこまれてしまう。めまぐるしく変わる情景を「詩人」は聞くのではなく、体験する。しかし、「詩人」が「老婆」が「二十歳の頃」、一緒の時間を過ごしたことは当然ないので、その体験は実は想像でしかない。まさに、これが「詩人」の目の前で<異界>が発生している証拠である。「老婆」がかつては「別嬪」であったことを想像させるシーンが、回想に当たる。このシーンで「老婆」は「詩人」のことを「深草少将」と呼び、暗示のように「深草少将」の行った「百夜がよい」の話題を「詩人」に振る。夢のように実体のない空間を話術によって「老婆」は発生させ、その中に「詩人」を取り込み、結果、「詩人」は死ぬ。「詩人」は「老婆」の<異界>に取り込まれたままこの世を去り、そこで「卒塔婆小町」は終わる。
「卒塔婆小町」という演目は舞台というメディアを使い、表現されることを前提に作られている戯曲である。一般的な小説に使われる語りとはまるで異なる手法において物語は展開していくが、「老婆」という語り手が存在し、「詩人」という聞き手が存在するという点では、「狐穴」の「犬伏老人」と「ぼく」との関係に大きな差はない。また、先程述べたように「ぼく」「詩人」と同じ立場に居るのが読者である。この定義により、「老婆」の話術によって発生した<異界>に呑みこまれた「詩人」が見ているものが、読者の見ているものになる。つまりは、「老婆」の話術が全てを支配しているのが「卒塔婆小町」という作品である。
一方、「狐穴」は「犬伏老人」が語るも、それはどこか三人称的であり、「老人」の心情は少なく、目の前に起こった出来事を連ねているに近い。これは昔から語られてきた物語の語り方とごく似た形である。それを「老人」が見た風に描き、「ぼく」に語り聞かせている。「老人」が体験した<異界>的なものを「ぼく」が書きとめ、残したものが「新釈 遠野物語」である、と冒頭で書かれている通りだとするならば、「戦争中のことだ。」(P250L4)は、まさに昔話で使われている手法(「むかしむかしあるところに」)をふんだんに使った物語であると言える。ならば、“一人称に見える三人称の昔話”が「新釈 遠野物語」であろう。「老人」は常に<異界>を語りに含んでから物語を展開する。それによって、前提として<異界>が聞き手の目の前に存在している、それが「新釈 遠野物語」である。
4、支配
聞き手と語り手が存在する一人称の語りによってもたらされる効果は、聞き手が介入する面白さと、聞き手と読者が同じ立場になることである。また、語り調によっては、聞き手が介入してくるだけではなく、語りそのものによって物語が独占され、聞き手が消滅する可能性がある。
語る人物の目線と立場、それらによって生まれる効果は大きい。今回、「新釈 遠野物語」の「狐穴」と「近代能楽集」の「卒塔婆小町」という同じような語りを持つ作品二つを比べて、改めて物語は語り手によって支配されていることがわかった。また、聞き手の存在も重要であり、聞き手がそのまま読者の立場に入れ替わることが出来る。この仕組みを上手く利用したのが「卒塔婆小町」であり「狐穴」であると言える。
また、この手法は、この世のものでないものを想像させる効果が大きく、<異界>をより強く感じることのできる手法であろう。聞き手が<異界>を感じることも、<異界>を見ることも容易になる。語りとは、一種の魔法であると、は言えないだろうか。
5、おわりたい
「卒塔婆小町」と「狐穴」の比較によって、物語における語りの立場とその効力が明確になった。しかし、結果、自分が何を考えたいのかまでは辿り着けず、半端な形のまま提出することになった。この章は文字数稼ぎの何物でもないと言えよう。
おわりたい。ごめんなさい。
1、<異界>と語り
「桃太郎も、「浦島太郎」も、読者が異界に誘われる時、その物語は三人称の目線で描かれている。それが、最も効果的に読者を異界の物語へ誘導出来るからであろう。語り調は物語の基本形とされ、昔話に多く利用されてきた。しかし、「新釈 遠野物語」や「近代能楽集」に見る語りは一人称の目線で語られている。更に、一人称の目線で語る内容は、語っている本人の体験である。いわゆる回想であるが、それらは一種の<異界>と言うべき内容や、語り方をされ、最終的にはこの世のものでない雰囲気を保ち続け、読者にその印象を強く残す。
では、この二つのテリング―語り方―を比べてみると何かがみつかるのではないだろうか。少し考えてみることにする。
2、一人称と三人称
「新釈 遠野物語」は「ぼく」が「犬伏老人」の語りによる、主に老人の体験談を書き連ねたものである。「卒塔婆小町」も同様に、「老婆」が「詩人」に自身の体験について語るものである。どちらも一人称による回想の物語であり、「狐穴」「卒塔婆小町」共に、ある瞬間から<異界>が発生する。「桃太郎」「浦島太郎」と同じように<異界>に入っては出てくる、一種の異界訪問譚である。「狐穴」と「卒塔婆小町」における違いは、小説形式か戯曲形式かである。戯曲として描かれた「卒塔婆小町」は「老婆」の心情は描かれず、ト書きによる説明と「老婆」の語りによって、ちょっとした<異界>が発生する。一方、「狐穴」は小説の形式で、「犬伏老人」の語り(時には会話も表現する)によって<異界>が存在していたことが後々わかる。
何故、一般的に読者を導入し易い三人称の目線ではなく、あえて一人称の語りによって一種の<異界>を発生させる方法を選んだのか。読者が体験する<異界>が三人称の目線だとするならば、一人称の目線によって発生する<異界>は読者が想像する<異界>なのかもしれない。そうなると、読者の目線(感情の移動)はどこに置かれるのか。三人称であると主に主人公に置かれ、一人称であると語っている本人以外の人物に置かれる。これは、物語上で<異界>を体験するのが主人公である三人称の語りと、語られる話を想像していく準主人公の立場とまるで同じである。見せたい<異界(物語)>の角度によって語りが巧妙に変えられているのである。
<異界>の中身を知る語り手と、それを聞いて想像する聞き手と読者。その関係を上手く使うことにより、物語をより一層面白いものに変える力が、語りにはあることがわかった。
3、語り手と聞き手
「狐穴」「卒塔婆小町」共に一人称の回想形式で語られ、語り手と聞き手の存在にて物語が展開していく。先程から述べている両作品内に見られる<異界>であるが、回想部分に当たるものを指している。「狐穴」では話している「犬伏老人」が体験したものを語る回想であり、聞いている「ぼく」はその物語に入ることはない。しかし、「卒塔婆小町」では、「老婆」が体験した出来事の中に聞き手である「詩人」が入り込んでいる。読者をそれぞれ聞き手に置き換えて考えると、<異界>に入る「犬伏老人」の体験談を聞き、その情景を想像する読者が「狐穴」であり、「老婆」の巧みな話術によって<異界>に誘われる読者が「卒塔婆小町」であると言えるだろう。
「老婆 わすれちゃいけない。あんたは深草少将だよ。」(P105L5)という一言により、「詩人」は「深草少将」になり、「老婆」の過去を見る。「卒塔婆小町」は戯曲なので語り手は「老婆」だが、再現する人がそこには存在する。回想を<異界>と定義し、それを見ることになった「詩人」は「老婆」の一言により、<異界>に呑みこまれてしまう。めまぐるしく変わる情景を「詩人」は聞くのではなく、体験する。しかし、「詩人」が「老婆」が「二十歳の頃」、一緒の時間を過ごしたことは当然ないので、その体験は実は想像でしかない。まさに、これが「詩人」の目の前で<異界>が発生している証拠である。「老婆」がかつては「別嬪」であったことを想像させるシーンが、回想に当たる。このシーンで「老婆」は「詩人」のことを「深草少将」と呼び、暗示のように「深草少将」の行った「百夜がよい」の話題を「詩人」に振る。夢のように実体のない空間を話術によって「老婆」は発生させ、その中に「詩人」を取り込み、結果、「詩人」は死ぬ。「詩人」は「老婆」の<異界>に取り込まれたままこの世を去り、そこで「卒塔婆小町」は終わる。
「卒塔婆小町」という演目は舞台というメディアを使い、表現されることを前提に作られている戯曲である。一般的な小説に使われる語りとはまるで異なる手法において物語は展開していくが、「老婆」という語り手が存在し、「詩人」という聞き手が存在するという点では、「狐穴」の「犬伏老人」と「ぼく」との関係に大きな差はない。また、先程述べたように「ぼく」「詩人」と同じ立場に居るのが読者である。この定義により、「老婆」の話術によって発生した<異界>に呑みこまれた「詩人」が見ているものが、読者の見ているものになる。つまりは、「老婆」の話術が全てを支配しているのが「卒塔婆小町」という作品である。
一方、「狐穴」は「犬伏老人」が語るも、それはどこか三人称的であり、「老人」の心情は少なく、目の前に起こった出来事を連ねているに近い。これは昔から語られてきた物語の語り方とごく似た形である。それを「老人」が見た風に描き、「ぼく」に語り聞かせている。「老人」が体験した<異界>的なものを「ぼく」が書きとめ、残したものが「新釈 遠野物語」である、と冒頭で書かれている通りだとするならば、「戦争中のことだ。」(P250L4)は、まさに昔話で使われている手法(「むかしむかしあるところに」)をふんだんに使った物語であると言える。ならば、“一人称に見える三人称の昔話”が「新釈 遠野物語」であろう。「老人」は常に<異界>を語りに含んでから物語を展開する。それによって、前提として<異界>が聞き手の目の前に存在している、それが「新釈 遠野物語」である。
4、支配
聞き手と語り手が存在する一人称の語りによってもたらされる効果は、聞き手が介入する面白さと、聞き手と読者が同じ立場になることである。また、語り調によっては、聞き手が介入してくるだけではなく、語りそのものによって物語が独占され、聞き手が消滅する可能性がある。
語る人物の目線と立場、それらによって生まれる効果は大きい。今回、「新釈 遠野物語」の「狐穴」と「近代能楽集」の「卒塔婆小町」という同じような語りを持つ作品二つを比べて、改めて物語は語り手によって支配されていることがわかった。また、聞き手の存在も重要であり、聞き手がそのまま読者の立場に入れ替わることが出来る。この仕組みを上手く利用したのが「卒塔婆小町」であり「狐穴」であると言える。
また、この手法は、この世のものでないものを想像させる効果が大きく、<異界>をより強く感じることのできる手法であろう。聞き手が<異界>を感じることも、<異界>を見ることも容易になる。語りとは、一種の魔法であると、は言えないだろうか。
5、おわりたい
「卒塔婆小町」と「狐穴」の比較によって、物語における語りの立場とその効力が明確になった。しかし、結果、自分が何を考えたいのかまでは辿り着けず、半端な形のまま提出することになった。この章は文字数稼ぎの何物でもないと言えよう。
おわりたい。ごめんなさい。
category: 論文
tb: -- cm: 0
大学生時代 
2016/03/30 Wed. 21:27 [edit]
文学部はとてつもない数の論文を書きます。いや、いうほど書いてないかもしれないけれど。
むかし、それでも今ではまだ「ちょっと前」なんですが、書いていました論文を時効ではないですが、ここにこっそり置きたいと考えました。とても拙い、それこそここに掲載している日記よりも拙く幼稚な論文です。
時代を感じたい、なつかしさを感じたい。
ここはきっと残っていく場所だから。
でもやっぱり恥ずかしいので、追記にしまっておきますね。
ではでは、そのいち。
むかし、それでも今ではまだ「ちょっと前」なんですが、書いていました論文を時効ではないですが、ここにこっそり置きたいと考えました。とても拙い、それこそここに掲載している日記よりも拙く幼稚な論文です。
時代を感じたい、なつかしさを感じたい。
ここはきっと残っていく場所だから。
でもやっぱり恥ずかしいので、追記にしまっておきますね。
ではでは、そのいち。
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伊坂幸太郎著 「死神の精度」収録
「恋愛で死神」を異化という視点から考える
伊坂幸太郎著「死神の精度」という作品は主人公、語り手が「死神」である。文春文庫「死神の精度」内にて、沼野充義氏(『解説 伊坂幸太郎の「精度」について』)は「ここでは死神は、サラリーマンか何かのように、『調査部』員として、人間の世界に派遣されてくる」と表現しているように、人間が思っている・想像している「死神」象とは異なった「死神」が主人公であり、語り手としてこの作品に登場している。
この「死神」は作中で「千葉」と名乗る。仕事場(人間の世界)では千葉の外見年齢、服装、派遣先本体(年齢・外見・服装含め)は様々なバリエーションがあるのに、名乗る名前だけは「千葉」というものしか与えられない。本人曰く「管理上の記号のようなもの」。上が管理する上で便宜がいいのだろう。まず、この時点で名前についての異化がみられる。三省堂発行大辞林第三版によると、名前とは「ある人物や事物を他の人や事物と区別して表すために付けた呼び方。名。」とあることから、「個人」を識別する為に付けられるものであると考えられる。またh、個性の一環であることが考えられる。こうしてみると千葉が言っている「記号のようなもの」とは大分意味合いが違ってくる。つまり、ここで名前という概念が異化されていることになるだろう。
「恋愛で死神」に関しては、恋愛という千葉が普段触れないものが中心にあり、それらに少しずつ千葉が近づくことによって、異化されていった事柄が多くみられる。千葉本人が恋愛に近づくのではなく、恋をしている人を酷く近くに居ながら遠くを見るような目で見つめることによって千葉はそれらを異化していく。今回千葉の担当になっている荻原という青年の言葉や行動に対し、千葉は独自の解釈を持ち、語っていく。たとえば、片思いをしている人物を「煩わしいくらいに、高揚と落胆を繰り返し、無我夢中なのか五里霧中なのかも分からなくなる。病とも症候群ともつかないが、とにかく面倒臭い状況に、溺れそうなっている」と表現し、病の一種のような言い方をしている。千葉にとって「恋愛」自体触れないもので、更に「恋してる」という状況が理解しがたいことがこの異化された「かたおもい」によってわかる。こういった「恋してる」荻原やその恋の相手である古川に対して説明は出来るが腑に落ちない様子というのが、作中に何回か登場し、異化されている。千葉が異化するものは、この作品に限定すると恋愛だ、恋だといった目に見えない感情が主で、表情の変化から千葉なりにくみ取り理解する。その理解の言葉が異化という結果に繋がっている。メタファーやメトニミーといった技法に近いようにも思えるが、本人は遠まわしに表現しようと思ってしているものでないことが、「かたおもい」を表現した時によくわかる。また、言葉に直さずともそのものの意味が通じる場面とは、我々にとっては普通のことであるが、千葉らの「死神」にとってはそうでもない。たとえば、「バーゲン」という言葉を辞書を引っ張り出してきたように「通常の値段よりも安く物を売るイベント」などと言ってしまったりする。このことからも千葉が比喩して物事を語っているわけではなく、思ったままを理解し、認識に変えていることがわかる。
千葉が「恋愛」を異化していく中で、担当した青年の荻原が発する言葉を新たな理解としてインプットされていった。荻原を担当する前では恋愛を「下らないこと」と理解していった千葉の見方が、一見ではわからない程度に変化していった。
「嘘」に関する千葉の認識が荻原と接触したことにより新たなものとして異化されている部分が見られる。とある映画のセリフであり、この作品のキーのようにして何度も繰り返される「誤りと嘘には大した差はない」といったもので、後に物語が展開していく中で、荻原の片思いの相手である古川もこの映画を見てこのセリフに好感を得ていたことがわかる。荻原と古川の間にある共通のセリフが以後、千葉の認識を変えていくようであった。
本来の仕事である、割り当てられた担当相手の死を無事見届けた後、千葉は荻原と恋仲にありつつあった古川とばったり出くわす。するとそこで千葉はとある「嘘」を吐いてしまう。彼女の為を思って(思いついて)の行動であるが、それは本人曰く、荻原らが吐いていた「偽りに近い嘘」ではなく「嘘」であるといっている。大辞林が提示する嘘は「事実をまげてこしらえたこと」となっていることから、千葉が吐いた「嘘」は悪意の籠った言葉であったのかもしれない。ここで微々たる千葉の変化が読み取れる。直接言葉にしてはいないが、彼の中で小さな異化がそこで怒っているように思えた。
千葉は荻原や古川の感情についての様々な変化を異化することによって、「死神」と人間の差をより明確に形作ったのではないだろうか。そうして、また次の仕事へと向かい死を迎える人間と対峙して成長を得るのであろう。
「恋愛で死神」を異化という視点から考える
伊坂幸太郎著「死神の精度」という作品は主人公、語り手が「死神」である。文春文庫「死神の精度」内にて、沼野充義氏(『解説 伊坂幸太郎の「精度」について』)は「ここでは死神は、サラリーマンか何かのように、『調査部』員として、人間の世界に派遣されてくる」と表現しているように、人間が思っている・想像している「死神」象とは異なった「死神」が主人公であり、語り手としてこの作品に登場している。
この「死神」は作中で「千葉」と名乗る。仕事場(人間の世界)では千葉の外見年齢、服装、派遣先本体(年齢・外見・服装含め)は様々なバリエーションがあるのに、名乗る名前だけは「千葉」というものしか与えられない。本人曰く「管理上の記号のようなもの」。上が管理する上で便宜がいいのだろう。まず、この時点で名前についての異化がみられる。三省堂発行大辞林第三版によると、名前とは「ある人物や事物を他の人や事物と区別して表すために付けた呼び方。名。」とあることから、「個人」を識別する為に付けられるものであると考えられる。またh、個性の一環であることが考えられる。こうしてみると千葉が言っている「記号のようなもの」とは大分意味合いが違ってくる。つまり、ここで名前という概念が異化されていることになるだろう。
「恋愛で死神」に関しては、恋愛という千葉が普段触れないものが中心にあり、それらに少しずつ千葉が近づくことによって、異化されていった事柄が多くみられる。千葉本人が恋愛に近づくのではなく、恋をしている人を酷く近くに居ながら遠くを見るような目で見つめることによって千葉はそれらを異化していく。今回千葉の担当になっている荻原という青年の言葉や行動に対し、千葉は独自の解釈を持ち、語っていく。たとえば、片思いをしている人物を「煩わしいくらいに、高揚と落胆を繰り返し、無我夢中なのか五里霧中なのかも分からなくなる。病とも症候群ともつかないが、とにかく面倒臭い状況に、溺れそうなっている」と表現し、病の一種のような言い方をしている。千葉にとって「恋愛」自体触れないもので、更に「恋してる」という状況が理解しがたいことがこの異化された「かたおもい」によってわかる。こういった「恋してる」荻原やその恋の相手である古川に対して説明は出来るが腑に落ちない様子というのが、作中に何回か登場し、異化されている。千葉が異化するものは、この作品に限定すると恋愛だ、恋だといった目に見えない感情が主で、表情の変化から千葉なりにくみ取り理解する。その理解の言葉が異化という結果に繋がっている。メタファーやメトニミーといった技法に近いようにも思えるが、本人は遠まわしに表現しようと思ってしているものでないことが、「かたおもい」を表現した時によくわかる。また、言葉に直さずともそのものの意味が通じる場面とは、我々にとっては普通のことであるが、千葉らの「死神」にとってはそうでもない。たとえば、「バーゲン」という言葉を辞書を引っ張り出してきたように「通常の値段よりも安く物を売るイベント」などと言ってしまったりする。このことからも千葉が比喩して物事を語っているわけではなく、思ったままを理解し、認識に変えていることがわかる。
千葉が「恋愛」を異化していく中で、担当した青年の荻原が発する言葉を新たな理解としてインプットされていった。荻原を担当する前では恋愛を「下らないこと」と理解していった千葉の見方が、一見ではわからない程度に変化していった。
「嘘」に関する千葉の認識が荻原と接触したことにより新たなものとして異化されている部分が見られる。とある映画のセリフであり、この作品のキーのようにして何度も繰り返される「誤りと嘘には大した差はない」といったもので、後に物語が展開していく中で、荻原の片思いの相手である古川もこの映画を見てこのセリフに好感を得ていたことがわかる。荻原と古川の間にある共通のセリフが以後、千葉の認識を変えていくようであった。
本来の仕事である、割り当てられた担当相手の死を無事見届けた後、千葉は荻原と恋仲にありつつあった古川とばったり出くわす。するとそこで千葉はとある「嘘」を吐いてしまう。彼女の為を思って(思いついて)の行動であるが、それは本人曰く、荻原らが吐いていた「偽りに近い嘘」ではなく「嘘」であるといっている。大辞林が提示する嘘は「事実をまげてこしらえたこと」となっていることから、千葉が吐いた「嘘」は悪意の籠った言葉であったのかもしれない。ここで微々たる千葉の変化が読み取れる。直接言葉にしてはいないが、彼の中で小さな異化がそこで怒っているように思えた。
千葉は荻原や古川の感情についての様々な変化を異化することによって、「死神」と人間の差をより明確に形作ったのではないだろうか。そうして、また次の仕事へと向かい死を迎える人間と対峙して成長を得るのであろう。
category: 論文
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